【中国深圳・日本人の男児刺殺事件】現地で暮らす日本人が見た“中国”と“中国人”

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2024年09月18日、中国広東省深センで日本人学校に通う10歳の少年が、44歳の中国人に刺殺され死亡するという痛ましい事件が起こりました。

6月には中国江蘇省蘇州市で日本人母子が刃物で切り付けられるという事件も発生しています。

これらの事件を受けて、中国で暮らす日本人の方々が、現地で感じた“中国”や“中国人”について率直に語られています。

ALPS処理水の放出開始前後から日本人へのヘイトが強くなった

以下、ツリーに続くPOST(※長文のためまとめさせていただきました)

2020年、コロナが始まった。多くの国々が中国の初期対応を批判し、中国人に対する理不尽で過激なヘイトも見られた。人命を第一に考えた中国のゼロコロナ政策に自分は感銘を受け、同調した。有事の際は、中国の政治体制に優位性があるとも思い、自粛要請しかできない日本の対応を下に見ることもあった。

そんな中、上海市のロックダウンが始まった。急激に自由が制限され、不幸に亡くなった方々のニュースを聞いて、心が蝕まれていった。優位性があると信じた中国の政治体制は一部の人々の犠牲の上に成り立つことを実感した。ロックダウンが終わり、何事もなく生活が再開した社会に違和感を覚えた。

社会の雰囲気が明らかに変わったのは2023年頃から。コロナ後のリオープンは予想よりも弱く、不動産問題が経済の重石となり続けた。不透明な雇用と所得で内需は回復せず、経済の減速を肌で感じた。暮らしへの不満と将来への不安が膨張していき、2019年のような明るい前向きな社会は戻ってこなかった。

自分を取り巻く環境が大きく変わったのは、2023年8月のALPS処理水の放出開始前後から。ネットには日本と日本人に対する攻撃的で過激な言論が溢れるようになった。SNSでそういう情報に触れるたび、心が死んでいった。そして2024年、蘇州市と深圳市の日本人学校で、児童が襲われる事件が発生した。

明確な殺意により2名の尊い命が奪われた。それでも中国政府は、日本に対する極端な言論を是正しない。日本が人民の不満の捌け口であり続けることを願い、常軌を逸した言論を容認し続けている。一連の事件を日本の戦争犯罪と結びつけて日本に責任転嫁をする人もいれば、蛮行を賛美する人すらいる。

もう限界だと思った。この異常な社会の現状は、どう理屈をつけても正当化できない。「善良な人もいる」それは分かる。中国人の友人たちからたくさんの優しさと愛情を受けてきたから。それでも、特定の民族へのヘイトを容認し、殺意を持って特定の国の子どもを襲撃する人がいる社会は、明らかに異常だ。

そしてその異常性を認めない中国政府と一部の人民が憎くてたまらない。だけど、それでも、中国のことを完全に憎み切れない自分がいる。パートナーは中国人だし、困ったら家族のように助けてくれる中国人の親友もいるから。中国はすでに自分の人生の一部になって切り離せなくなってしまっているから。

まだ今後どういう気持ちで中国と向き合っていくのか、考える勇気も気力も全くないのだけど、ぐちゃぐちゃになってしまった心を、荒みきったメンタルを少しでも立て直したくて、今の気持ちを文字に起こしてみた。 いまはただただ、深圳で亡くなられた日本人の男の子のご冥福を静かに祈りたいと思う。

  

  

反日教育について

   

  

中国人に「戦争」の2文字は禁句

以下、ツリーに続くPOST(※長文のためまとめさせていただきました)

ところがある晩ふたりの時に、突然むこうから戦争について振ってきたんです。それ自体はよいのですが、その目は感情的で私に対し憎悪を向けていました。 彼は趣味で日本刀を二本所持していました。本物かどうかはわかりませんがその鞘を抜き、「知っているか?この刀が多くの中国人を殺したんだ」と。

優しかった人が突然態度を変えたのでかなり混乱しました。 「日本人としてその歴史に対しまだまだ学びが足りない。今後同じ過ちを繰り返さないように学び続けなければいけない」と返しましたが、それは怒りを呼ぶだけでした。 何を口にしても怒りを呼ぶだけだと思ったので、黙ったのち家を出ました。

それまでその日本刀は彼の自慢でした。「美しいだろう」なんて言って飾ってあったのです。 私から戦争の話題を出すわけもなく、なぜ突然ああなってしまったのか今もはっきりしません。 ただ、それはいいのです。私が驚いたのはそのあとでした。

彼と共有している友人知人はみな知的で、開放的な思考ができる人が多かった。けれど、ある友人にこのことで助けを求めた時にまったく話が通じなかったんです。 「戦争の話をされて中国人がどんな気持ちになると思うか考えなかった?」 私は、私からそんな話題を出すわけがないと、そう答えました。

ところが、↑の言葉を繰り返すばかり。知性あるはずの友人と話の筋がまったく噛み合わない。 しまいには、「麻友子、アメリカ人があなたに原爆投下の話をしたらどう思う?許せないでしょう?人の気持ちも考えて」と。 いえ、私そもそも戦争の話など振っていない。向こうから突然来たんだよ。

そんな言葉も全く通じず、諦めました。 そもそも私は先述した二言ぐらいしか彼に返していませんが、結局は何を言っても彼にとっては納得できない返事だったわけです。 翌日もずっと「麻友子は超えてはならない一線を超えた。許されない。二度と日本製のものは買わない」と繰り返し、怖かった。

ただ彼の変貌はのちに見えてきた性格から、今ではなんとなく理解できます。 それよりもショックだったのは共通の友人のことでした。「私はそんな話はしていない」という言葉、何度繰り返しても届かないのです。 日本に友好的なこんな人でさえ、戦争の二字を前にしてこれほど話が通じなくなってしまう。

四川で生活を始めるといえば、「四川は戦争被害がひどかったからしっかり学んでね」と、攻撃的になるよりも私のためを思って声をかけてくれる友もいる。それでも今では、「もし触れてはいけない心のスイッチを押してしまったらどうしよう」という不安が常にあります。

「日本人として謝罪しなさい」という前提でその話題を振ってくる人には私が何を返そうともダメで、その求める謝罪にも終わりがない。 正直、怖くて話せないというのが私の事情です。